プロカメラマン
遠藤 宏樹

その道の知られざる匠を探す旅
ballersmindのプロジェクト『"TAKUMI"』

第10話は、"ロケバス屋"のいちスタッフからプロカメラマンへ登り詰め、
30年が経った今でも第一線で活躍を続ける 遠藤 宏樹さん にスポットをあてる。

これまでの経緯や、初めてカメラを握った時のお話などをお聞かせください。

私は昔、ロケーションサービス…
所謂"ロケバス屋"に勤めていました。

その会社では、クライアントのほとんどがスチール撮影メインの現場だったこともあり、
撮影現場への送迎だけではなく、その他全てのアシスタントをこなしていたので、私も現場でサポートをしていました。

当時、撮影現場を見て…

「これなら私にも出来るんじゃないかな?」

と言う軽い気持ちでカメラを始めたのがきっかけです。カメラの知識は全くありません。(笑)

まずは35mmのフィルムカメラを買って、撮影現場でカメラマンのアシストをしながら色々と教えて頂きました。
ゼロから勉強です。

ロケーションサービスで良かったのは、
毎日、カメラマンやスタッフが違うので色々な撮影パターンを見させてもらえた。
だから運良く、雑誌や広告、グラビアなどを撮っている数々の有名なカメラマンにも教えて頂きました。

とは言え、殆どは技術を教えてもらうと言うよりは、撮影現場を見て自分で技術を盗むと言った方が正しいかも知れません。

撮影現場と車が遠い場合は
私が車に居ないといけない事があります。
(その時はロケバス屋として、モデルさんのサポートをします)
空いた時間で、車に残っている撮影待ちのモデルさんにお願いして、車の周辺で撮らせて頂き練習していました。

ある時に、ロケーションサービスの仕事とは別に、簡単な撮影依頼が来ました。

休日を使っての活動にはなりましたが、
それをきっかけに、
1件の撮影依頼から2件、3件とご依頼をいただけるようになりました。

気がつけば、ロケーションサービスのお給料と、副業的になっていた撮影の月収が同じくらいになったのです。

そんなある日、一人のモデルさんが
「今度パリに行ってレコーディングをしてCDジャケットの撮影もするんだけどアシスタントで来ない?」
と誘ってくれたのです。

私は3年勤めた会社を辞めました。

レコーディングとCDジャケット撮影の1週間の拘束で、その前後の日程は自由にしてもらえる約束でパリに行きました。

「日本に戻ってからはカメラマンでやって行こう!良いタイミングだ!」
と思っていました。

覚悟はしていましたが、
日本に戻ってしばらくは仕事も無く、
営業やカメラの練習の日々でした。

しかし嬉しい事に、前職でお世話になっていた方々から少しずつ仕事を頂いたり、
紹介して頂いたりして撮影が増えていきました。

カメラマンになって32年目になりますが、今でもその方々とのお付き合いもあり
撮影依頼を頂けることに、
本当に感謝しています。

これまでの主な作品内容を教えてください。

現在の主な撮影は、雑誌、広告です。
モデル、俳優、ミュージシャン、スポーツ選手、著名人の撮影が多く、
以前はファッション誌、エンターテインメント誌、
スポーツ誌が多かったのですが最近ではビジネス誌の撮影が多いです。

作品を制作するときに大事にしている想いを教えてください。

一番大事にしている事は「光」です。
光によって全然違うイメージになってしまうからです。

被写体に、優しい感じ、爽やかな感じ、クールな感じなど表情を指示する前に、
先ずは自然光の方向やストロボの使い方など、イメージに合う光を自然な感じになる様に作りながら、
バリエーションが撮りやすい様にセッティングするのを大事にしています。
ストロボ光を使う時は出来るだけ自然光と馴染む様にしています。

社長さんや俳優さんなどの撮影では
時間が限られている方が多いので、出来るだけ早くイメージに合うライティングを作っておいて、
あとはコミュニケーションを取る時間を出来るだけ多くする様に心掛けています。
多忙な方だと15分くらいの間に数パターンのカットを、良い表情を引き出しながら撮影をしないとならないからです。

最後に、あなたの "maxim." を教えて下さい。

私が一番好きな言葉や大事にしている事は「氣」です。
自分の気持ち、相手の気持ち、気持ち一つで良い方向にも悪い方向にも行くからです。

自分が良い気を出していれば
撮影現場でも楽しく雰囲気良く仕事が進みます。
ですので、プライベートでは山や海、原っぱなどできるだけ自然に触れ、
良い気を取り入れ、悪い気を放出しに行っています。

自然の光を利用して被写体の本質を引き出すスキルは
まさに芸術、アートである。
ただその裏には、「人を思い遣る心」と
「十全十美な準備」があるからこそ描かれる。
だから彼が放つ「氣」に共鳴するかのように、
被写体さえも自然でいられるのだろう。